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あいすまん

あいすまん

詩人誕生の~(論)

『沖国大文学』にみる詩人誕生の四つのかたち
―MVCH-29019・伊波泰志・キュウリユキコ・松永朋哉―

宮城隆尋


沖縄国際大学文芸部を創部して以来、現在までの三年余りで『沖国大文学』は四号まで発行された。その間二十九人の作者が百八十二作品を発表してきたが、詩に関してみると百十九篇、二十二人が発表している。それらを読み、合評していく中である体系的な特徴が浮かび上がってきたので、詩人の誕生というテーマで論じてみようと思う。

①まわり道(詩人誕生前夜)
  現在的観念詩の類型 ―九条岬ほか― 

詩が大衆の求心力を失ったといわれて久しいらしいが、はたしてそうか。中高生に詩を書く者は多い。恐らく一九九七年頃から二〇〇〇年頃まで、浦添市立図書館に「Y・Aノート」という利用者同士の交流のためのノートがあった。何の変哲もない大学ノートだったが、中高生を中心に活発な書き込みがあり、私信、趣味情報の交換などが行われ、いわばインターネット上でのチャットのアナログ版といった様を成していた。そこにわたしが自分の詩集から詩を書き写し、傍らに近況や勝手な人生観など添えると、共鳴するように詩を書く者が増えだし、感想を交換し合ったりしてなかなか楽しかった。年齢は明かされないが思春期の特権をフルに活用した観念詩が並び、中高生と思しき詩人群であった。ネットに目を移しても、十代、二〇代で詩のサイトを公開している人は多い。そこで多く目にしたのが、『沖国大文学』でいえば九条岬に代表される、猟奇性、密室性に執着した詩群である。

だから今木の上から自分の部屋を見ているの
でもね 部屋は逆さまに見えるの
体中あの人の痕がいっぱいなの
鳥たちが来てその痕を食べていくの

九条岬「窓の向こう側で」(第四連)『沖国大文学』三号

九条岬は沖縄国際大学文芸部公式ホームページ上の「投稿掲示板」に詩を定期的に投稿し、『沖国大文学』に継続して詩が掲載されている学外部員のひとり。この詩は「バードウォッチングが趣味」の「男」がその亡妻に似た女性と知り合い、殺害して木の上に吊るすという内容。殺害する場面は描かれず、殺されたはずの女性の視点で描いているところに工夫が見られる。江戸川乱歩にも似た猟奇性や密室性、ショートショート的などんでん返しなどを狙っているのは伝わってくるが、詩語の練り方が甘く、散文的な印象を受ける。世界観の作りこみも、ネット上で読んだ詩に同じようなものが多数あり、まだ独自の領域に達しているとは言い難い。
『沖国大文学』には、同じような詩を書く作者に伊集ゆうきがいる。

足元はガラガラと崩れ落ちやがて暗闇になった
 私はいつでも独りで孤独で
 どんどん喰い込んでくる糸と後から後から溢れてくる液体に
 塗れながら歩いた
 振り返ると引きずった痕が彼方まで続いていた
 もうどのくらい迷ったのだろう
 目指す場所なんて忘れてしまった
 「もう楽になりたいの」
 迷い疲れた私は刀をあてがい
 黒が流れ出る様にと貫いた
 でも黒は赤黒くなっただけで、拭ってもとれてはくれなくて
 糸もますます絡みつくばかり・・・

伊集ゆうき「黒」(第二連)『沖国大文学』二号

彼女も学外からの寄稿者で、この作品の掲載時(「偽パンダつうしん」だい3ごう 二〇〇一年二月)は高校生であり、さらにこの作は手作りの詩集『xx17B0816IU』からの転載であり、実際に書かれた時期は更に若い頃と思われる。九条岬に比べると密室性が高く、独自の言い回しも見られるが、まだ猟奇という倒錯した美に耽溺しているのみに見受けられる。「目指す場所なんて~」の一行など説得力を感じる部分もあるが、全体を見ると、世紀末的価値観に支配されたまま、受動的に詩語を発している段階から脱却できていないように思えるのだ。以下のすやもと沐希(うるき)も同様である。

穢れた大地にあなたは横たわってゐるのです。果てしなく続く腐食と汚染に抱かれながら、あなたは溶けてゐくのです。
白々しく太陽は穢れなきあなたを照らすのです。僕はあなたを視て得も言われぬ快感を其処に見出してしまゐました。
僕はあなたに祝福の穢れを。戒めて。

すやもと沐希「夢から醒めれば」(第一行目~五行目)
『沖国大文学』四号

彼女らの背景にあるのはBUCK‐TICKでありLUNASEAでありMALICEMIZERであり、PierrotでありPlusticTreeである、即ち一昔前「ビジュアル系」と呼ばれたロックバンドたちの歌詞から言葉を借り、世界観を借りて自己の心象風景を描く。同年代の作者たちが揃いも揃って同じ選択をしている。ビジュアル系とは、イギリスのゴシックパンクといわれるロック形態に倣って出発し、楠本まきの漫画『KISS××××』に表されるような少女漫画的価値観を多分に取り込みつつ、漫画誌『ガロ』などに執筆した漫画家丸尾末広らの描いた江戸川乱歩や夢野久作、坂口安吾らに影響された世界に影響を受けるなどして進化、変化して耽美性、猟奇性、密室性に特化した世界観を築いたジャンルであり、九〇年代後半に一時期マスメディアで注目を浴びた後恐ろしい勢いで消費され尽くした。しかしその性質への共感だけは現在の若い世代にも受け継がれているらしいことが、この詩群を見てわかる。
因みにビジュアル系の詞世界とは、以下のようなものである。

 ブラウン管の中の正体不明の君は君じゃなくて君のママで
 螺旋階段をビン詰めの君が僕より先に転げ落ちる悲しい顔で
気が狂(ふ)れそうな僕は神経質で綺麗なモノが欲しくてそれを独り占めするんだ
君によく似た花を君の身代わりに部屋の壁に貼り付けて
君の肉体君の手足君の吐息君の心臓何度も何度も思い出して
剥き出しにされたヒステリックな君だけいつも探してる桜の下で
気が狂(ふ)れそうな君はAB型で綺麗なものが欲しくてそれを独り占めするんだ
桜の木の根っこに君をからませて 春が来るまで静かに眠ろう

Merry Go Round「桜の満開の木の下で」『#69』

サブカルチャーの表現に自己を投影、または仮託することで詩語を紡いでいく、現在的な詩人の出発点を体現したかたちが、彼女らの描く詩世界である。はじめのうちは自分の言葉で自己に対峙できず、まずは言葉を借りて模倣から始めるというのはいつの世にもある手段だろうが、現在は詩を書くために歌詞をお手本とするというのが、まわり道から始まる現在的な詩人の誕生前夜といえるのではないか。彼女らには、模倣やパロディといった受動的な表現形態から脱却し、自分なりの世界を自分の言葉で紡ぎ始めて欲しい。それには聞く際も読む際も書く際も、よりリアリティの感じられるものを求めて取捨選択を繰り返していただきたいものだ。


②ある到達点(詩人の誕生)
現在詩の進化形―MVCH―29019・伊波泰志―

何をもって詩人の誕生とするか。模倣から脱却したとき、即ち借用した言葉のつぎはぎではなく自己を描くのにもっともふさわしい言葉を選んで詩語を紡ぎ始めたとき、と仮定すると、ビジュアル系の模倣からはじまって脱却したと思しき詩人が、MVCH―29019である。

灰皿に4本の吸殻
1本は焦燥感
次の1本は決意
次の1本は安息
次の1本はただ僕の好きな無意味な時間
その間に1本の電話
日記につける程もないささやかな事件の終結

MVCH―29019「灰皿」(全体)『沖国大文学』四号

日常の中でのふとした気付きには、作者の姿がはっきりと浮かび上がる。生活の一場面を日記でなく詩に高めることができるのは、生活に詩が根付いていることの証明となり、作者が詩と正面から対峙していることの証明となる。四本の煙草の吸殻に託された四つの心境。時間軸で配列されているだろう吸殻の間に「1本の電話」が挿入されるところに詩語の飛翔がある。焦燥と決意と安息と「無意味な時間」の狭間にある「電話」は、「日記につける程もない」ほど「ささやか」だけれど「事件」である。一体どんな用件の電話なのか。「僕」がかけた電話なのか、それともかかってきたのか。詩に限ったことではないが、解釈の広がりを許容する懐の深さを持った作品でなければ、読者に通じない言葉の羅列に終わってしまう危険がある。
ほかに、郷土紙「沖縄タイムス」連載の「詩時評」でも彼の作品が以下のように取り上げられた。

「ひとつひとつ解かれていく/わたしは解けて消えていく/わたしの中から光があふれて/わたしをかき消し 浄化していく」(「ブリス」)と、繊細な感性を表現しているのはMVCH?29019である。詩とは、本来、作者という「私」の経験や感情をかたるものであったはずだが、この記号の作者たちには、すでにそこの前提が信じられていないようだ。

石川為丸「詩時評〈県内〉四月 インターネットと現代詩」
「沖縄タイムス」二〇〇二年四月三〇日

「ブリス」は『沖国大文学』三号に掲載された詩だが、「灰皿」よりもビジュアル系の世界観に近い「繊細」な詩世界を描き出している。「神様なんて信じてない僕ら」が「平和」と「幸福」を得るために「光」によって自らを解体し「浄化」するというもの。MVCH―29019は金沢在住の学外部員であり、彼の使う「平和」という言葉には沖縄独特の政治的意味合いはなく、元々の意味に近い安らぎや安息の意味があると思われる。宗教を持たない人は、罪の意識はあってもそれを告白し、神の許しを得ることが出来ない。この詩にあるような、自分の存在に「穢れ」を感じても、それを「浄化」する方法を知らないから、自己を消滅させることに喜びを見出す、という心境は、次のウチマタの詩にも表されている。

排水口へ流れていく過去
排水口へ流れていく意識
手首からあふれる汚濁
ナガレルナガレル
ナガレルナガレル
(中略)
浴室に汚れなき死体が存在している

ウチマタ「流出」(第四行目~八行目・十三行目)
『沖国大文学』四号

彼の場合はまだ舌足らずな部分も多いと思うが、自己に対する「穢れ」意識と、自己を破壊することで「浄化」できると信じていること、またそれを望んでいるところがMVCH―29019と共通しており、この世代の価値観や自己認識に一つの体系的特長を見出せるかもしれない興味深い現象である。
MVCH―29019が影響を受けたのがビジュアル系であろうことは先述の通りだが、ゴシックパンクの影響を受けたビジュアル系というのは、取り込んだ要素も江戸川乱歩の影響を受けた丸尾末広であるなど、いわばパロディのパロディのパロディといったジャンルであり、新たな進化形態を模索する上では袋小路にはまり込んでいるような状況。ましてやその影響を受けた詩人たちがオリジナリティを獲得するには、極めて厳しい状況である。ビジュアル系ほど極端ではないにしても、ポストロックや音響系など構築でもパロディでもない新たなジャンルの台頭があるように、音楽界全体に似たような空気が広がっているように見受けられる。即ち歌詞を出発点とする現在的詩人の眼前には共通して、氾濫する言葉と修辞の中でオリジナリティーを獲得しなければならないという困難な状況が横たわっていることになる。しかしその状況に対し、多作によって独自の道をこじ開けたのが伊波泰志である。伊波の場合はビジュアル系ではないのだが、歌詞を出発点とする点では先述の五人と共通してまわり道をしたことになり、MVCH―29019と同じくまわり道をまわりきった稀有なタイプである。

僕とかかわらなかった
ひとはみんな
うなじのあたりに
ニッサンとかトヨタとかの
マークが付いているにちがいない
そんなことを考えながら
今 すれちがった生物を
光の速さで忘れていく
たぶん
ヒト
だったはず

伊波泰志「光速の彼方に」(七~十七行目)
『沖国大文学』創刊号

彼が『沖国大文学』で発表しつづけた詩は二十六篇にのぼる。これは宮城隆尋の二十四篇を上回り最多であるうえ、二十二人で発表してきた全詩篇の約二十二パーセント、五分の一以上を独りで占めることになる。さらに彼のHP「EXPO」では数十篇にものぼる詩を公開しており、以前は日記形式で毎日新作詩をアップするというとんでもない企画をも一定期間続けていたという多作ぶり。それゆえ彼の作風は一篇一篇を見ると少しずつだが、ここ数年でめざましい変化を見せ、どこかで聞いたようなフレーズが登場しなくなり、彼特有の痛烈な社会批判やアイロニーに磨きがかかった。

君みたいのがどんなに
「一人だ、孤独だ」と呟いていても
 君は自らコインを注ぎ込んでいて
 大体 君の呟きは嘘である

 君みたいな奴の溜息は
 この地球を汚染している
 君みたいのが呟くから
 殺人は絶えないのだ

伊波泰志「汚染者」(第一・四連)『沖国大文学』四号


③まわり道をしない詩人
     ―キュウリユキコ・松永朋哉―

歌詞を拠り所とし、ミュージシャンの言葉に自己の姿を仮託して詩語を紡ぎ始める現在的詩人の出発は、幾分饒舌な立ち上がり方をするが、それ故にそこにリアリティを獲得するのに相当の努力を要する。しかし逆に歌詞を拠り所としない誕生の仕方をする詩人もいる。以下の二人である。

五七年前にトリノコサレタ男が一人畑を耕す

十七時半、決まった時間に仕事から帰り、
十八時、決まった時間に夕飯を済ませ、
夕暮れ時、畑を耕す時間
日が暮れ、目の前が薄暗くなろうと
ノコサレタ男は一人畑を耕す 耕す

畑は都市化が進む町にぽつんとノコサレタ
畑の向こうにまだ人気の残る廃屋が並んでいた
石垣で囲われた家並みは娘にとって
何故か懐かしい場所に思えた
古い井戸 とおくふかく真っ黒い水面は
娘の顔を映さなかった
古いお札を見つけ住人に肩を叩かれる

ノコサレタ畑は男が耕し
ノコサレタ男は畑を耕す
男は五七年前にノコサレタママ
ノコサレタ畑の土地にはアパートが建った

五七年前に取り残された五七年後の男が
ノコサレタ畑を耕す 耕す

キュウリユキコ「芋畑」(第一~三連・八~九連)
『沖国大文学』四号

キュウリユキコの場合は、他人の言葉に自己を仮託しないが、その代わりに言葉を削りすぎてしまうところがあった。「芋畑」の前作は「憂う」(『沖国大文学』二号)であり、その間一年、詩を発表していなかった。この一年のブランク以前の彼女の詩は、以下のようなものだった。

夢にまで見た再会
並ぶ背丈に月日の流れを感じ
今のみ言えうる言葉に代えられる思い
耳に聞こえてくるのはこの世のメロディ
うたた寝に覚め御世の国へとの告知
この世で頬に伝う涙に代えられる募る思い

キュウリユキコ「白昼夢」(全体)『沖国大文学』二号

独自の言い回しもあり、解釈の幅もあるが、いかんせん短い。もう少し世界を展開してもらわないと解釈に自由度が高すぎて誤読を招きやすくなる。特に本文しか解釈の材料の無い外部の人間からすると解釈の仕様が無いのだ。自己を晒すことへの抵抗感を超えることがこの頃までの課題であった。それが先に抜粋した「芋畑」では詳しく細かく描き出すことによってより題材(「畑」と「男」)の象徴性が高まり、読み手は詩行に原風景を重ね、或いは未知の風景に想像力を刺激され、様々な解釈が可能になった。四号の巻頭を飾った「みずたまり」も、おたまじゃくしやハイビスカスの花弁の描写に、沖縄で育った者なら誰もが幼少の頃の思い出を重ねられるような佳品であった。一年間のブランクの間に何があったかは読者は知る由もないが、帰って来たキュウリユキコの紡いだ言葉は紛れもない詩であった。同様に歌詞を拠り所としない詩人に松永朋哉がいる。

畳のある居間で大人たちが
世間話をしているのを尻目に
子供は逃げ出した
彼らに見つからないように

見渡す限りのさとうきび
その中に廃屋が一軒
子供は鉄条網を乗り越えて
どこまでも逃げた

階段を駆け下りて
小さな縫製工場を通り抜けて
子供は必死に走った
捕まらないように

見上げれば灰色の雷雲
電線には大きな黒い鳥
子供は怯えている
黒い影が追ってくるから

 松永朋哉「夢の記憶」(第一~四連)『沖国大文学』三号

 この詩にわたしが愕然としたのは、思春期を経る間に人間は誰しも社会的存在として生まれ変わるとするなら、そこで殺されてしまう思春期以前の自分を、思春期以前の自分の視点で描いているのではないかと思ったからである。大人になる際に感じる恐怖とは、子供である自分が抹殺されてしまうことへの恐怖であり、まだ子供だった頃の自分の視点で見れば、自分がこの世から消されてしまい、新たに生まれた「大人の自分」が自分に成り代わって生き始めることになる。その視点の転換が、この詩に描かれている大人から逃れようとする心境に説得力をもたせている。松永の詩人としての誕生は大学入学以前であると思われ、歌詞にも通ずるものが見当たらないためどのようなものであったかわたしは知りえないが、本をよく読むらしいこともあり、現在には極めて珍しい、文学を読んで文学を始めた、純正で古風な立ち現れ方をした詩人であるのかもしれない。

以上、『沖国大文学』に詩を発表した中で八人の作者について論じてきたが、なかでもビジュアル系の歌詞から真理を抽出することに成功し、その詞法を獲得し詩に昇華したMVCH―29019、ビジュアル系ではないが歌詞から出発し多作によって新たな境地を切り開いた伊波泰志、一年間のブランクの間に手探りで詩の方法を探し当てたキュウリユキコ、文学という現在の詩作の出発点としては古風なものとなってしまった純正な手本に学び詩を紡ぎ始めた松永朋哉。この四人には、『沖国大文学』誌上で詩人誕生の四つの形を見ることができると思う。
 沖縄の詩壇は現在、高齢化が進んでいる。『沖縄文芸年鑑2001』(沖縄タイムス社)の「沖縄・奄美文芸関係者人名録」で「活動分野」の項目に「詩」とある者七十名のうち、社会一般で「高齢者」とされる六十五歳以上は二十四名、全体の三分の一を超える。かつて新人からの詩の投稿を受け付けていた「琉球新報」紙上の「琉球詩壇」が九〇年代初頭に連載を中断し、創刊から暫くの間「詩」の欄で投稿を受け付けていた文芸誌『新沖縄文学』も同時期に休刊に追い込まれ、さらに以前は『琉大文学』などが隆盛を誇った大学文芸サークルも、八〇年代には沖縄国際大学の近代小説研究会のみとなり、それも九五年には事実上休部状態に陥った。この十年、新人の詩壇への登竜門となり得るものが「詩集」を応募対象とした山之口貘賞のみとなってしまったことが、詩壇への入り口をより「狭き門」としてしまい、詩壇と若い世代の詩を書く層との乖離を引き起こしていると考えられるが、その中にあって『沖国大文学』がこれまで三年余りで二十二人の詩を発表し、発行の度に地元紙の「詩時評」や教育欄で取り上げられてきたことは、詩の底辺拡大に寄与した役割は大きいといえるのではないだろうか。そして伊波泰志、松永朋哉の二人は、今秋、処女詩集を上梓しようと現在編集作業に奮闘中である。確固たる生活基盤も無い学生が、相応の金額を出して詩集を作ろうとしている。そして作れるだけの詩のストックがあり、それを世に試そうとしている。真摯に詩に向き合う二人の若者の詩人としての誕生が、詩壇に快く受け入れられ、作品の質的向上のために手厳しく叩かれることを願ってやまない。

二〇〇二年十月一日


初出:「詩と批評 キジムナー通信」(孤松庵 2002.10.1)



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